●ファンクラブって…

ファンクラブの設立は、74年9月で間違いないはずなので、皆さまの記憶をまとめると、設立当初のファンクラブ機関紙は「パピプペポ」という名称で、ペラ1枚の簡単なモノだった。で、75年4月に、本格的な機関紙「ずうとるび えいじ」が創刊された、ということになりますね。
って、だんだん、謎解きミステリーみたいになってきましたねぇ。
私自身は、記憶があるのは、A5かB6サイズくらいの小冊子だった機関紙だけなので、たぶん、入会したのは、76年になってからだったのかなー、と。
ペンフレンド募集のコーナーがあって、そこに投稿して、たくさんお手紙をいただいて、一時期、十人くらいの人と文通していた記憶があります。
もちろん、そんな手紙も一通も残っていないし、今思うと、手紙でいったい何を話し合っていたんでしょうね。
中には、私と同じ中学生なのに、ファン同士でバスを借り切って、ずうとるびの移動車と併走して、地方のコンサートについて行っている、という子なんかもいて、ただただビックリ。今ブログをご覧いただいている方の中に、そんなことしてた方もいらっしゃるのかも知れないですよねー。


ところで、皆さん、最初に行った「ずうとるびのコンサート」っていつでしたか?
私は、たぶん、75年の初夏だったと思うんですよね。
トーゼンながら、チケットの半券なんてとってないから、何月だったのかもわからないんだけど、そのコンサート会場で買った似顔絵のTシャツ(たぶん、喜久蔵師匠がお描きになった絵だったと思います)を、その年の夏休みの臨海学校で着てたのは確かな記憶で、臨海学校は7月の20日頃…。
山田くん(山田隆夫さん)が、“うわさのチャンネル”で、デストロイヤーに鉛入りの座布団だかナンだかを投げられて、脳震盪だかムチ打ちだかになって、山田くん抜きの3人のコンサートだったのです。小学校の6年生でした。
ただただ、ひたすら、ヨシキーと叫んでいた記憶しかなく、どんな曲をやったのかとか、ダンスとか演奏とか3人でどうしたのかとか、全く覚えてないんだけど。次の日、まったく声が出なくなっていたことは覚えてる。
新井くん(新井康弘さん)も、ヨシキ(今村良樹さん)も、江藤くん(江藤博利さん)も、3人だけでやったコンサートのこと、覚えてるかなー。